スコットランド王ドナルド2世(英語化(Anglicization)された名称)、本名Domnall mac Causantín(スコットランド・ゲール語: Dòmhnall mac Chòiseim(IPA:[ˈt̪oːvnəɫ̪ˈmaʰkˈxoːʃɪm]))は、9世紀後半にピクト人の王またはアルバ王であった人物。ピクト王コンスタンティン1世(Causantín mac Cináeda)の息子であり、中期アイルランド語の詩『The Prophecy of Berchán』において「Dásachtach(=狂人)」という諡号を与えられている。
生涯
ドナルドは先代のギリック(Giric mac Dúngail)の死または退位により王となった。その即位の時期は定かではないが、通常889年とされている。『アルバ王年代記(The Chronicle of the Kings of Alba)』にはこのようにある。
以下が和訳例。
ドゥノター(Dunnottar)での襲撃は、少数の海賊による小規模な襲撃ではなく、『ヘイムスクリングラ』の中でハラルド・フェアヘアー(ノルウェー王ハーラル1世)が行ったとされるスコットランドでの略奪に関連したものである可能性が指摘されている。『The Prophecy of Berchán』においてはドナルドがドゥノターで死したとされているが、それは北欧人ではなくゲール人の仕業とされているようで、フォレス(Forres)で死んだとする史料もある。ドナルドの死は『アルスター年代記(Annals of Ulster)』と『クロニコン・スコットラム(Chronicon Scotorum)』によって900年のこととされているが、そこではピクト王ではなくアルバ王とされている。いずれにせよ、父であるコンスタンティンと同様若くして殺害され、死後はアイオナ島に埋葬されたのである。
ピクト王からアルバ王への変化は、スコットランド人による王国成立への一歩を示すものと考えられているが、歴史家の中でもこの変化がいつであったかの位置づけについては、意見が分かれており、「狂人」とのドナルドの諡号からして、一般にドナルドのものとされることはない。大きな変化はコンスタンティン2世(Causantín mac Áeda)の治世に起こったというのが一致した見解であるが、ギリックの治世であるという説もある。
『アルバ王年代記(The Chronicle of the Kings of Alba)』では、ドナルドは従兄弟のコンスタンティン2世に継承されている。ドナルドの息子マルカム(Máel Coluim mac Domnall)は後にマルカム1世として王になった。『The Prophecy of Berchán』では、ドナルド2世とコンスタンティン2世の間に「半日主権を握るだろう」と別の王が短期間に君臨したことを示していると見られる。この裏付けと見られるものとして、『クロニコン・スコトルム』には、904年に「ピクト王イード(Ead)」が「Uí Ímair」との戦いで死亡したとされている。しかし、これは誤りであり、おそらくバーニシアの支配者アドゥヴルフ(Ædwulf I of Bernicia)のことであろうと考えられており、その死は他のアイルランドの年代記(Irish annals)では913年であったと報告されている。
脚注
参考文献
関連項目
- アルバ王国
- アルバ王国の起源(Origins of the Kingdom of Alba)
外部リンク
- CELT:コーク大学コーク校の電子テキストコーパスには、アルスター年代記、タイガーネック年代記、フォーマスターズアンドイニスフォールン、クロニコンスコトルム、ブリテンの書(ドゥアンアルバナッハを含む)、聖人伝、さまざまな聖人伝が含まれている。ほとんどが英訳されているか、翻訳が進行中である。
- アルバ王年代記 - CKA



