革嶋城(かわしまじょう)は、京都市西京区川島玉頭町にあった中世の日本の城。
概要
革嶋城は、革嶋神社(革嶋春日神社)一帯に築かれていた。
神社の南側に小さな『革嶋城公園』があるが、特に案内板は設置されていない。
沿革
築城年代は定かではないが革島氏によって築かれたと云われる。
革島氏は常陸源氏で鎌倉時代初期に本所近衛家から革島荘の下司職に補任され下向、革島氏を称したという。
革島城が文献に表れるのは『長享年後畿内兵乱記』に見えるのが唯一で、天文16年(1547年)細川国慶が「河島城」を攻めたと記されている。
永禄9年(1566年)、土豪の中沢満房、革嶋一宣らの立て籠もった山城国勝竜寺城を岩成友通が攻め落とすと、友通は敵対した土豪達を厳しく追及し、革嶋一族を始め多くの土豪は追放され、革嶋城も廃城となったと考えられる。
遺構
かつては竹藪として南半分の居館敷地が残っていたが、現在は宅地開発されており遺構はない。
西岡被官衆
- 革嶋越前守一宣:革嶋城主、子孫は細川・明智家臣の後に帰農
- 築山兵庫介貞俊:築山城主、細川家被官、子孫は熊本藩の在京家臣
- 神足掃部春広:神足城主、子孫は熊本藩家臣
- 能勢市正光頼:今里城主、子孫は足利義昭に仕え二条城討死
- 中小路五郎右衛門:開田城主、子孫は細川家臣のち藤堂家臣
- 志水対馬守重久:志水落合城主、子に志水清久、子孫は熊本藩家臣
- 調子彦三郎武吉:調子城主、近衛家被官、子孫は調子村領主
- 竹内宮内少輔季治:久我家被官、のちに堂上家(公家)となる
- 鶏冠井孫六:鶏冠井城主、三好家被官<滅亡>
- 物集女太郎左衛門尉:物集女城主、子孫は細川藤孝に謀殺<滅亡>
- 竹田左京進仲広:寺戸城主、三好家被官<逃亡>→野田氏
アクセス
- 桂駅(阪急京都本線)より南へ徒歩5分
参考文献
- 『長享年後畿内兵乱記』
- 『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、1980年。
- 『革嶋神社案内板』
- 『京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣刊参照
関連項目
- 日本の城一覧
- 革嶋氏
- 岩成友通
- 勝竜寺城の戦い
外部リンク
- 山城革嶋城



